認めちゃいなよ、「嫌いなんだ」って。

ポケモンGOを認められないと言う後輩が私に「ポケモンGOやってると思われたくないから歩きながらスマホはなるべくいじらないことにした」と言い出した。

「歩きスマホやってたんだ?」と思わず言ったら一瞬止まった。

 

歩きスマホがするから

あんなものに夢中になってたら大切なものに気付けない

事故が起こる

 

違う違う、そうじゃないでしょ。

認めちゃいなよ、「私はポケモンGOを受け入れられない、嫌いだからなんかしら正当性が認められそうな理由をつけてとにかく批判したいし無くしたい」

って。

 

しばらく前に「怒りの根源を辿っていけば、最後には繊細で脆く柔らかい本質にたどり着く」という話を聞いたことがある。

ポケモンGOを理解できない(≒怖い)という感覚を自ら認めて、「私は嫌いだ」と言い切ってくれたらこっちもうんざりせずに済む。「そうね、嫌いなものは仕方ないもんね」と。

そこをきれいごとで覆い隠してしまうから対立が生まれる。ある種の正義の戦いだ。

 

事故が起こるvs楽しいこと

 

こんなの一種の戦争じゃないか。どっちも正しいんだから。でもこれってさっきの構図に置き換えると

 

嫌いvs好き

 

っていうごくごく単純な話に切り替わる。それでようやく同じ土俵に上がる。

ポケモンGOを楽しんでいる人は好きだから肯定したいだけだ。非常に純粋でわかりやすい動機だ。

それに対して否定したい人はいろいろ理由を乗っけてくる。これは良くない。上から目線になっている。だから対立が生まれる。

別に嫌いになることに理由なんていらないと思う。私は紫蘇が嫌いだし友人はキノコが嫌いだけど別に嫌いな食べ物が嫌いであって何が悪いというんだ。好きになるのは理由が必要なく、嫌いになるのは理由が必要なんて法は無いじゃないか。

 

嫌いと好きという構図にまず降りてきてもらわなきゃ話が進まない。そのうえなら「じゃあ、嫌いって思っている人が困っていることや嫌だと感じることを解決しなきゃいけないね」ということになり、その時点でようやく発展的関係に落ち着く。

 

嫌いだという人は早めにその立ち位置の違いが故に話を進ませられないということを理解した方がいい。なぜ好きな人がこっちに来ないのかと言われても、好きな人は問題を感じていないから上る必要がそもそもないのだから。

 

話を戻すけれど、歩きスマホポケモンGO関係なく今までもずっとやってきた人がいる。そして、スマホに限らずガラケーでもいる。その部分から目を背けて、統計的な証拠もなく「ポケモンGOのせいで歩きスマホが増えた」と言うのはなんというか、非常に非論理的だなぁと思う。まぁ、そういう数値まで調べた記事とかを見落としていたら申し訳ないのだけれど。

一つ一つの問題はまとまっているようで実は独立した問題だ。それをごっちゃにするから解決が出来ない状況になっている。絡まった毛糸を直すのに突然真ん中からいじり始める人はいないだろう。端の方からゆっくりと。それが正しいやり方だ。ポケモンGOの話も、一つ一つを順番片づければいいと思う。