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友達にかかるコスト

私の母は10年以上前から「私は得になる人しか付き合わない」と言うようになり、なんて薄情なことを言うんだろう、と内心思っていた。

今になれば友達についてはまだ綺麗ごとを口にしていた時期だなという風に思う。

 

そもそも友達の「コスト」は目に見えて金がかかるという話だけではない。時間や技術、共感や場合によって叱る力もそのコストに入る。

「友人」は知らず知らずコストがかかっているけれどそのコストをコストだと感じにくいからコストという言葉に違和感を感じるだけ。

 

友人は無償の愛をくれたりはしない。

 

時折会う時間、電話や贈り物、メールなんかの「コスト」を掛けて友人関係を保つ努力をしなければすぐに人間関係は途切れてしまう。

その中でも「会う」ということは最もコストがかかる行動。時間を作り、金がかかり、会話技術が必要。

例えばネット上で知り合った友人だとする。

会話をしたいだけなら電話でもメールでもチャットで良いわけなんだから、実際に会わなくても存分に会話できる。それでも実際に会ってみたいという気持ちになるのはどんな人か確かめたい(≒会うことはそれだけのリターンが望める)ということに尽きると思う。

 

この会うという行為をしないとどうしてもぞんざいに扱われていると感じてしまうという感覚は、おそらく会うという行為にコストがかかっていることを薄々感じとるからじゃないかと思う。

 

昔、母の言葉が薄情に感じたけれど、今はその通りだなと思う。自分をぞんざいに扱うような人にはコストを掛ける必要はないし、逆に大切にしてくれる人はあらゆるコストを掛けたい。

シンプルな話にすると、結婚式を挙げたそれぞれ二組がいてそれぞれが結婚式に呼んだのに片方の祝儀は3万、片方が1万だったらそれはお金の問題じゃない、祝う気持ちの問題だと言われてももやもやするでしょう。

3万くれたら3万渡す。一種の対等な友人関係を保つためにも「コスト」は重要な問題。また、3万のお祝儀を準備したのにお土産がスーパーで買えるお菓子だったらやっぱりもやもやする。

そうじゃなくても、一方的に延々と話をしてこちらの話を聞いてくれないタイプの人は疲れる。これはわかりやすいけれど、これだって此方を大切にしていない人だからやらかすことだ。

 

「友人とは清らかであるべきだ」という価値観に縛られて我慢して対等でない友人付き合いを頑張っている人がいるなら貴方をぞんざいに扱う人を貴方が大切にする必要はないよと言いたい。

かつての私に対しても言ってくれる人がいたらきっと気持ちが楽になったと思う。あぁ、勿体ないことをしたなぁ。

 

ただ、出会ったばかりはわかりやすくコストを掛けて当然。ここで相手もコストを掛けてくれる人か?なんて見極めてるといつまでたっても人付き合いが始まらない。

コミュ症の人にもこのタイプがいるけれど、最初のコストを掛けられないタイプの人は本当に仲良くならない。ウザがられるかなとか怖いなと思わず「コストをかけてるだけ」と割り切ると意外と前に進めるのかも。

楽しく対等で幾らでも笑っていられる相手と一緒にいたいものだねぇ。