台湾へ行ってきました

新婚旅行という体で行ったのに思いっきり遊んできたのでいちゃラブとか捨ててましたね。ちょっとした記録のつもりでホテルのことなどを書いておこうと思います。誰かの糧になりますように。

 

◆役立ったもの

新聞紙(洗濯物を乾かす時に重宝)
小さいタライ(洗う時に無いと大変)
エコバック(高級店以外の店で必要)
小さいハサミ
リセッシュ(洗濯しにくい物に活躍)
小さい日傘
カメラ
情報紙(るるぶ、まっぷるなど)
密封できる袋(大小どちらも)
寝間着(ホテルには無かった)
湿布・バンテリンテープ(筋肉痛予防/笑)


◆いると聞いたけどあまり使わなかった物
扇子(タイミング?ぜんぜん暑くなくて出さなかった)
アルコールティッシュ(夜市で手拭きに使っただけ)
首下げのパスポートケース(セーフティボックスにパスポートは入れておいた)


◆不要?
折り畳みハンガー(沢山あったから使わなかった)
ストール(上着二枚の方が良い)
コットンや消耗品系(現地で日本と同じ規格でほぼ同じ値段で買える)
飲み物(心配なら日本と同じ物も見つけられる、値段は同じ位)

シャワー掛けを利用した物干し(100均商品)(シャワー掛けが無かった)


◆あったら良かった物
ポケットWIFI(市内WIFIはかなり弱く繋がらないことが殆ど。ホテルやデパートは問題ない/空港でも貸し出している)
台湾語の本(日本語は意外と通じるし、意外と通じない。あると意志疎通しやすい)
小さめのクリアファイル(パンフレットなどを入れておくため)
やや厚手の上着(秋物程度、冷房は20度設定が基本)
タブレット端末


◆ホテルにあったもの(ランディスタイペイ)
歯ブラシ
ソーイングセット
コットンセット
シャワーキャップ
ナプキン
サニタリーバック

髭剃り
バスソルト
→ここまで「アメニティ補充して下さい」のメモで補充
せっけん
ボディークリーム○
シャンプー○
コンディショナー○
ボディソープ○
○は使うと予備が棚に補充
ミネラルウォーター(一日最大4本/毎日補充)
ウェルカムフルーツ(3種類)
使い捨てスリッパ(使うと予備補充)
バスローブ
フェイスタオル
バスタオル
ミニタオル
→タオル類は毎日交換
靴磨き
靴べら
ランドリーバック(有料/枚数を書く紙が置かれている)
紙袋
ドライヤー
(頼めば氷も)
(必要に応じてホテルチケット/タクシーで出かける時に聞かれる)

ホテルのスタッフは日本語がわかる人が数名だけ。基本的に英語でやり取りになる。

キャッシュカードの提示とデポジットの説明(ミニバーなどを使わなければキャンセルされる)を求められるので準備しておくと気が楽(キャッシュカード、デポジットだけ聞き取れるように意識を集中させたら大丈夫)

朝食についての説明も一緒にされるが、朝食の回数と部屋番号を言って案内をして貰える、場所(一階を突き当たって左)という説明がある。

カードキーは出かける時も持ち歩く。二枚渡される。オートロックなので忘れず持っていくこと。部屋に入ったらすぐにカードを入れる場所があり、そこに挿すと電気が点けられる。

朝と夕に一回ずつベッドメイキングが入る模様。その時に一緒にミネラルウォーター等も補充される。ベルを鳴らして部屋にいるか確認後、ベッドメイキングなどをしていいか確認される。

他のレストランと違い、天香楼はウーロン茶もお金が掛かるので注意(500円くらいで大きめの急須ひとつ分の模様)

 

MRT「中山國小」はホテルから一本道。日本の電車が使えるのであれば大丈夫なくらい簡単。

「全○(耳に糸のような字二つ)福利中心」(チュエンリエンフウリーヅォンシン)が一番近いスーパー。

「watosons」(ワトソンズ)が一番近いドラッグストア。パックを沢山買うならここで大丈夫。ラインナップは日本とほぼ同じ。

セブンイレブン」はホテルのすぐ裏。台湾ビールも売っている。台湾らしいお菓子もある。店員さんはほんの少しだけ日本語はわかる模様(「袋」とか「ありがと」程度)

親友なんて作るものじゃない

”出来るものだ”

なんて浅いことを言うつもりは毛頭無いです。

 

私は結婚して、数年後には1000kmほど離れた場所に行くことになっている。

この人と生きようと決めたのだからさほど困難は無い。

無いと思っていた。

人とのつながりが苦手で結婚も合理的に決めた部分があり、友人にプレゼントをするならいずれ無くなる消耗品を選び、親ですら距離を置いてきた。

物に対する執着もおそらく人より少ない。突然ばっさりと捨てることも私にとっては珍しくない。ここでしか出来ない趣味も持たない。趣味でつながる相手も当然探さない。友人関係ですら突然断ち切ることもある。最悪一人のために数人あるいは集団全てを捨てる。

そういう風にして、執着しないように生きてきた。

 

困ったなぁ、行くのが少しだけ寂しくなってしまったよ。困ったなぁ。

なにを置いていっても、まぁなんとかなるけど、これだけはどうにもならん。

こちらが一方的にそう自覚してしまっただけのことかもしれない。

親友なんて作るもんじゃない。本当に今困っているから。

認めちゃいなよ、「嫌いなんだ」って。

ポケモンGOを認められないと言う後輩が私に「ポケモンGOやってると思われたくないから歩きながらスマホはなるべくいじらないことにした」と言い出した。

「歩きスマホやってたんだ?」と思わず言ったら一瞬止まった。

 

歩きスマホがするから

あんなものに夢中になってたら大切なものに気付けない

事故が起こる

 

違う違う、そうじゃないでしょ。

認めちゃいなよ、「私はポケモンGOを受け入れられない、嫌いだからなんかしら正当性が認められそうな理由をつけてとにかく批判したいし無くしたい」

って。

 

しばらく前に「怒りの根源を辿っていけば、最後には繊細で脆く柔らかい本質にたどり着く」という話を聞いたことがある。

ポケモンGOを理解できない(≒怖い)という感覚を自ら認めて、「私は嫌いだ」と言い切ってくれたらこっちもうんざりせずに済む。「そうね、嫌いなものは仕方ないもんね」と。

そこをきれいごとで覆い隠してしまうから対立が生まれる。ある種の正義の戦いだ。

 

事故が起こるvs楽しいこと

 

こんなの一種の戦争じゃないか。どっちも正しいんだから。でもこれってさっきの構図に置き換えると

 

嫌いvs好き

 

っていうごくごく単純な話に切り替わる。それでようやく同じ土俵に上がる。

ポケモンGOを楽しんでいる人は好きだから肯定したいだけだ。非常に純粋でわかりやすい動機だ。

それに対して否定したい人はいろいろ理由を乗っけてくる。これは良くない。上から目線になっている。だから対立が生まれる。

別に嫌いになることに理由なんていらないと思う。私は紫蘇が嫌いだし友人はキノコが嫌いだけど別に嫌いな食べ物が嫌いであって何が悪いというんだ。好きになるのは理由が必要なく、嫌いになるのは理由が必要なんて法は無いじゃないか。

 

嫌いと好きという構図にまず降りてきてもらわなきゃ話が進まない。そのうえなら「じゃあ、嫌いって思っている人が困っていることや嫌だと感じることを解決しなきゃいけないね」ということになり、その時点でようやく発展的関係に落ち着く。

 

嫌いだという人は早めにその立ち位置の違いが故に話を進ませられないということを理解した方がいい。なぜ好きな人がこっちに来ないのかと言われても、好きな人は問題を感じていないから上る必要がそもそもないのだから。

 

話を戻すけれど、歩きスマホポケモンGO関係なく今までもずっとやってきた人がいる。そして、スマホに限らずガラケーでもいる。その部分から目を背けて、統計的な証拠もなく「ポケモンGOのせいで歩きスマホが増えた」と言うのはなんというか、非常に非論理的だなぁと思う。まぁ、そういう数値まで調べた記事とかを見落としていたら申し訳ないのだけれど。

一つ一つの問題はまとまっているようで実は独立した問題だ。それをごっちゃにするから解決が出来ない状況になっている。絡まった毛糸を直すのに突然真ん中からいじり始める人はいないだろう。端の方からゆっくりと。それが正しいやり方だ。ポケモンGOの話も、一つ一つを順番片づければいいと思う。

友達にかかるコスト

私の母は10年以上前から「私は得になる人しか付き合わない」と言うようになり、なんて薄情なことを言うんだろう、と内心思っていた。

今になれば友達についてはまだ綺麗ごとを口にしていた時期だなという風に思う。

 

そもそも友達の「コスト」は目に見えて金がかかるという話だけではない。時間や技術、共感や場合によって叱る力もそのコストに入る。

「友人」は知らず知らずコストがかかっているけれどそのコストをコストだと感じにくいからコストという言葉に違和感を感じるだけ。

 

友人は無償の愛をくれたりはしない。

 

時折会う時間、電話や贈り物、メールなんかの「コスト」を掛けて友人関係を保つ努力をしなければすぐに人間関係は途切れてしまう。

その中でも「会う」ということは最もコストがかかる行動。時間を作り、金がかかり、会話技術が必要。

例えばネット上で知り合った友人だとする。

会話をしたいだけなら電話でもメールでもチャットで良いわけなんだから、実際に会わなくても存分に会話できる。それでも実際に会ってみたいという気持ちになるのはどんな人か確かめたい(≒会うことはそれだけのリターンが望める)ということに尽きると思う。

 

この会うという行為をしないとどうしてもぞんざいに扱われていると感じてしまうという感覚は、おそらく会うという行為にコストがかかっていることを薄々感じとるからじゃないかと思う。

 

昔、母の言葉が薄情に感じたけれど、今はその通りだなと思う。自分をぞんざいに扱うような人にはコストを掛ける必要はないし、逆に大切にしてくれる人はあらゆるコストを掛けたい。

シンプルな話にすると、結婚式を挙げたそれぞれ二組がいてそれぞれが結婚式に呼んだのに片方の祝儀は3万、片方が1万だったらそれはお金の問題じゃない、祝う気持ちの問題だと言われてももやもやするでしょう。

3万くれたら3万渡す。一種の対等な友人関係を保つためにも「コスト」は重要な問題。また、3万のお祝儀を準備したのにお土産がスーパーで買えるお菓子だったらやっぱりもやもやする。

そうじゃなくても、一方的に延々と話をしてこちらの話を聞いてくれないタイプの人は疲れる。これはわかりやすいけれど、これだって此方を大切にしていない人だからやらかすことだ。

 

「友人とは清らかであるべきだ」という価値観に縛られて我慢して対等でない友人付き合いを頑張っている人がいるなら貴方をぞんざいに扱う人を貴方が大切にする必要はないよと言いたい。

かつての私に対しても言ってくれる人がいたらきっと気持ちが楽になったと思う。あぁ、勿体ないことをしたなぁ。

 

ただ、出会ったばかりはわかりやすくコストを掛けて当然。ここで相手もコストを掛けてくれる人か?なんて見極めてるといつまでたっても人付き合いが始まらない。

コミュ症の人にもこのタイプがいるけれど、最初のコストを掛けられないタイプの人は本当に仲良くならない。ウザがられるかなとか怖いなと思わず「コストをかけてるだけ」と割り切ると意外と前に進めるのかも。

楽しく対等で幾らでも笑っていられる相手と一緒にいたいものだねぇ。

子どもの話

今日、偶然「ハートネットTV 密かに産まれる命~女子刑務所 出産・育児は…~」を見た。特別見たいと思って待っていたわけでもなんでもない番組だけれど、他に見るものが無くて。

ぼんやりと見ているうちに一瞬「刑務所に入るようなことをしたからこうなるんだよなぁ」と思って、そう思った自分に少し嫌悪感を感じた。

 

子どもには罪はないのだよ、子どもには。

 

親も苦しんでいる、育児をしたいとおもっていた、という視点で描かれがちな問題だけれどこれって子どもは何も辛くないのか?

一つのケースを拾って読んでいると、「子どもが懐いてくれなくて苦しくて覚せい剤に手を出した」と言っているけれど、子どもは「よく知らない大人が自分をよく知っている体で寄ってくる恐怖」は計り知れなかったと思う。

寄ってくるどころか、いきなりある日一緒に住み始めただけでも子どもは恐ろしかっただろうに。

私だって、ある日親戚のおばさんがウチに来て主人と仲良く喋りながら「あをさんも一緒にお茶しましょ~シブースト好きだったでしょ?」とか言われたら怖い。子どもならなおさらじゃないか?

まずは家にいるのが当たり前の「人」になることが最優先だったのに、「親」になることを最優先したらそりゃうまくいかないなぁと思った。

 

里親制度に協賛して乳児院に入れなかった子どもを預かっている親の子どもが知り合いにいる。

親→私はその子の親

子→知らないおばさん

預かり→怖がってる…!

ケースワーカー?→大丈夫ですよ~

という三つ巴となっていて毎回子どもは泣くし親は預かっている人に騙されているというようなことを言うし、ケースワーカーは状況を収める方向を考えない。聞いていてまさに地獄かと思った。

 

離れて2~3歳まで育ってしまったら子にとっての「親」にはなれないのかもしれない。「友達」になるしかない。けれど親は「親」になりたい。すごく複雑で葛藤を呼ぶ話。

 

刑務所の話だけじゃなく、2~3歳までの間に愛着形成が出来るほど一緒にいられないならアプローチが違う方向になるべきなのかな。

でも、そんな簡単に切り替えられないね。人間だから、間違うこともあるわけだし。

ネット婚活は大体おんなじ道を通る

後輩の話を聞くことがある。その内容は主に恋愛についてだった。服選びに同行することもある。次に男性と会う時に着る服だ。

付き合っていた彼氏の話、元カレの愚痴、今知り合った人について…。

後輩の恋愛の話は尽きない。「たまに彼氏いらないって時期もあるんだけどね」と言う時期もありつつ、すぐにまた新しい人を見つけてくる。

うわぁ、わかるな。と思う。私も職場が女性ばかりで、多少男性もいたけれど「職場関係の人と恋愛云々になるのは面倒だなぁ」という気持ちが先行して他の場でいろいろ出会いを求めたタイプだからだ。

そういう私も「彼氏いらないって時期」を経験しているし、「新しい人」を見つけて浮かれる時期もあった。

良いと言ってくれる人と出会ったり、その人を自分が気に入らずに疎遠にしたりとあれこれやっているようでふむふむなるほどと聞いていると面白い。

私もその感覚なったことあるわーと思ったからこそ面白い。「小学生のころ○○知っていた人RT」なんていうやつ。あれと一緒。「うっわwww知ってるwwwwなっつかしwwww」みたいな。

 

そんなこんなで自分がネット婚活をやってて感じた事を時系列で書いてみる。

 

初期1/2→登録したて。誰がいいか分からないしどうしたらいいかもわからない。とりあえず使い方を覚えるだけで精一杯。

初期2/2→登録一週間。いいねしてくれた男性ととりあえず話してみる。会話が続かない。一部の人は自分へコミュ症を疑い、あるいはそのアプリ等が使いにくいという理由でこの時点で離脱する。

 

中期1/3→登録1か月。いいねしてくれる人が登録したて少なくなり、自分からいいねしにいく。会話の続け方を多少覚え始めるが続かないか、あるいは数通やり取りで即会い。会った人が良ければ一部の人がこの時点で離脱する。

中期2/3→自分からいいねすることに抵抗が無くなる。会話の続け方が上手になり、やり取りそのものが楽しくなる。慎重な人はここで会う約束を取り付ける。

中期3/3→会うことに抵抗が無くなる。数通やり取りで即会いの時もあれば何通もやり取りしてやっと会うこともある。

中期?/3→①彼氏いらない期が訪れる。どんな格好いい人にいいねされても「はいはい、あーめんどくせー」と思う。たびたび訪れ、時に初期と中期の間に訪れる。

②他のアプリを使いだす。「あっちのアプリでも見たわ」って人の姿を目にする。相手もきっと同じこと思ってる。

 

後期1/3→いいねの数を数えて自分は意外とモテると勘違いし、えり好みをするようになる。年収を重視するようになる。

後期2/3→いいねが減る。やりとりが続かなくなり、それまでにやり取りしていた相手にまたメッセージを送ったりあるいは放置していたいいねを返したりする。

後期3/3→手あたり次第に出会う。多少怖い思いもすることがある。

 

中期?が2つもあるのに○/3はおかしいとは思うけれど人によっては入らない時期なのでこのままにしておく。

結婚しましたが、私は後期の3/3まで経験済の喪です。よく結婚したと思う。いやまじで。主人が仏様か神様なんだろうな…捨てる神あれば拾う神ありって上手な言葉だよ。

今後輩が2/3あたりなんじゃないかなと話しながら思いつつ、アドバイスをして様子を見ている。変な男に引っかからないでほしいと思いつつ後期の3/3までいくなよと「お前が言うな」なことを思っているから大概だ。

また、おそらく後期のあとには末期が存在していて「ビッチか男性不信になる」なんじゃないかと予想。そうでなかったら「頭の中お花畑(王子様はここにはいない)」かな。私の身の回りではネット婚活に関してこの状態になった人をまだ見かけたことがないのでもしそういう人がいたら教えてください。

 

私が後期3/3までいって結婚できた理由はまた次に任せようと思う。今日はもう1500文字も書いて疲れたので。

友人が社畜になった話。

専門学校時代、友人はこう言っていた。

「だらだらしている時が一番幸せ リラックマの気持ちすごいよくわかる」

そして私はこう言った

「なんかつまんなくない?」

 

それが、社会人になってお互い結婚してみたらこうだ。

友人は私に言った。

「専業主婦って暇じゃない?」

 

私は驚いた。貴方、だらだらしている時が一番幸せって言ったじゃないか!

一瞬驚いた後に、家のことをしたり主人の代わりにやることもあるからそれなりに動くよ。ウチは昼食を食べに帰宅するから、ごはん作りは三食やってるし意外と自由に動けるまとまった時間は少ないんだよね、と言うとやっぱり納得できない様子であれこれと聞いてきた。

 

私は『会社』は人を変えるものなんだな…と思った。

彼女には子どもが一人いる。子どもに変えられた可能性もあるかもしれないけれど、育休中は「仕事したくない働きたくない」と呪文のように会うたびに言っていたからやはり会社が彼女を変えたんだろう。

私は「専業主婦は暇そうだ」と言う彼女に学生時代の話を蒸し返すことなんてできなかった。とてもじゃないけれど、思い出して!とは言えなかった。

おそらく彼女は、「だらだらしている時が一番幸せ」な自分を封印して忘れることで仕事をしているんだと思った。それが正しいかどうかは聞くわけにはいかないし、彼女自身もそれを自覚してるかもわからないのだから真相は闇の中だ。

 

逆に、「なんかつまんなくない?」と学生時代に言った自分も変わった。今の生活をそれなりに幸せと感じられるようになり、働きたいかと言われたら「暇だから」という理由では働くことはないなと思うようになった。

 

私も私で、変えられたのだろう。『専業主婦』という立場に。

けれど、考え方によっては『仕事』に変えられたのかもしれない。7年ほど働いて仕事というものを経験した。私がキラキラと働いているイメージがあった場所はそうではなかった。その中でもがいて、自分がやりたいことはやり尽くした。人によっては同じ資格を持っていても一生出来ない人がいる仕事までやった。正直に言えば、満足した。

資格を持っていても一生できない人がいる仕事までやるということはそれなりの代償を伴った。気付いたら幻聴と幻覚を見るようになり、幾度も自殺が頭に過るような状況になった。とてもじゃない、働くどころか生きているだけでも精一杯の状況にまで陥ってなぜすぐに辞めなかったのかというとそれはまた別の日の自分にまかせたいと思う。

 

閑話休題

社畜』はなるのではなくて適正があるのかもしれない。仕事を頑張りたいやりたいと思っていた私には適性が無く、だらだらしたい仕事したくないと思っていた友人には適性があった。

社畜の適正なんて無い、と言われても働き続ける才能があるとしか思えない。私は自分の能力を正しく把握する才能がなかった。だからその能力を超えた仕事を求めて自滅した。

社畜になる能力というのは、言い換えれば自分の能力を正しく把握出来る才能が重要だと思う。プライドが高い割に能力が低い人はその才能がないと言い換えてもいい。自分には才能がないからこの仕事はここまでしかできないと言える人の方が仕事というものは続けられると思う。書いていて思ったけれど、「出来ない」と言える能力も必要だ。

つまり、社畜になるにはさまざまな才能があってこそ、ということか。

※但しガチなブラック企業に勤めて洗脳を受けながら仕事をしている人は洗脳されやすい能力が筆頭として必要。

 

専業主婦になった今の立場は僥倖と言って差し支えないだろうしこの立場を捨てるなんて考えられない。友人に「暇じゃない?」と聞かれてもだ。

社畜になった友人を見下すつもりはない。むしろ、仕事をしながら子育てもしている友人はすごいと思うし、私よりずっと才能がある人だ。少しばかり羨ましいと横目に見ながら、才能がない私は無駄なプライドを抱えながら毎日を過ごそうと思う。