友人が社畜になった話。

専門学校時代、友人はこう言っていた。

「だらだらしている時が一番幸せ リラックマの気持ちすごいよくわかる」

そして私はこう言った

「なんかつまんなくない?」

 

それが、社会人になってお互い結婚してみたらこうだ。

友人は私に言った。

「専業主婦って暇じゃない?」

 

私は驚いた。貴方、だらだらしている時が一番幸せって言ったじゃないか!

一瞬驚いた後に、家のことをしたり主人の代わりにやることもあるからそれなりに動くよ。ウチは昼食を食べに帰宅するから、ごはん作りは三食やってるし意外と自由に動けるまとまった時間は少ないんだよね、と言うとやっぱり納得できない様子であれこれと聞いてきた。

 

私は『会社』は人を変えるものなんだな…と思った。

彼女には子どもが一人いる。子どもに変えられた可能性もあるかもしれないけれど、育休中は「仕事したくない働きたくない」と呪文のように会うたびに言っていたからやはり会社が彼女を変えたんだろう。

私は「専業主婦は暇そうだ」と言う彼女に学生時代の話を蒸し返すことなんてできなかった。とてもじゃないけれど、思い出して!とは言えなかった。

おそらく彼女は、「だらだらしている時が一番幸せ」な自分を封印して忘れることで仕事をしているんだと思った。それが正しいかどうかは聞くわけにはいかないし、彼女自身もそれを自覚してるかもわからないのだから真相は闇の中だ。

 

逆に、「なんかつまんなくない?」と学生時代に言った自分も変わった。今の生活をそれなりに幸せと感じられるようになり、働きたいかと言われたら「暇だから」という理由では働くことはないなと思うようになった。

 

私も私で、変えられたのだろう。『専業主婦』という立場に。

けれど、考え方によっては『仕事』に変えられたのかもしれない。7年ほど働いて仕事というものを経験した。私がキラキラと働いているイメージがあった場所はそうではなかった。その中でもがいて、自分がやりたいことはやり尽くした。人によっては同じ資格を持っていても一生出来ない人がいる仕事までやった。正直に言えば、満足した。

資格を持っていても一生できない人がいる仕事までやるということはそれなりの代償を伴った。気付いたら幻聴と幻覚を見るようになり、幾度も自殺が頭に過るような状況になった。とてもじゃない、働くどころか生きているだけでも精一杯の状況にまで陥ってなぜすぐに辞めなかったのかというとそれはまた別の日の自分にまかせたいと思う。

 

閑話休題

社畜』はなるのではなくて適正があるのかもしれない。仕事を頑張りたいやりたいと思っていた私には適性が無く、だらだらしたい仕事したくないと思っていた友人には適性があった。

社畜の適正なんて無い、と言われても働き続ける才能があるとしか思えない。私は自分の能力を正しく把握する才能がなかった。だからその能力を超えた仕事を求めて自滅した。

社畜になる能力というのは、言い換えれば自分の能力を正しく把握出来る才能が重要だと思う。プライドが高い割に能力が低い人はその才能がないと言い換えてもいい。自分には才能がないからこの仕事はここまでしかできないと言える人の方が仕事というものは続けられると思う。書いていて思ったけれど、「出来ない」と言える能力も必要だ。

つまり、社畜になるにはさまざまな才能があってこそ、ということか。

※但しガチなブラック企業に勤めて洗脳を受けながら仕事をしている人は洗脳されやすい能力が筆頭として必要。

 

専業主婦になった今の立場は僥倖と言って差し支えないだろうしこの立場を捨てるなんて考えられない。友人に「暇じゃない?」と聞かれてもだ。

社畜になった友人を見下すつもりはない。むしろ、仕事をしながら子育てもしている友人はすごいと思うし、私よりずっと才能がある人だ。少しばかり羨ましいと横目に見ながら、才能がない私は無駄なプライドを抱えながら毎日を過ごそうと思う。