おいしい朝ごはんをどうしても食べたかった
人はたぶん、家庭を持った時に参考にするスタイルは自分の実家なんだと思う。私も御多分に漏れず自分の母のスタイルを真似している節がある。
私の母は専業主婦だ。主人とはよくよく話し合った結果、私も専業主婦になった。こんな時代だから仕方ないけれど、専業主婦をしている人は私の周囲には皆無で、子育てをしている故に育休で、という人が一人いるだけだから母の生活のように「今日はだれだれとお茶を」なんて優雅な話はほぼないのだけれど。
そんな私だけれど、どうしても母の真似を出来ない(したくない)部分は家事だった。
私の母は極端な天然で特に食事に対してその才能を遺憾なく発揮していた。朝ごはんがふりかけオンリーだったこともたくさんあった。
私が主人と暮らし始めたころ、私はどうしてもおいしい朝ごはんが食べたいと思った。朝ごはんはほとんど食べないで構わない方だけれど、それでも炊き立てのご飯を数口でいいから口に入れたいし、おかずもたんぱく質を使ったものが入った物を食べたかった。
もともと栄養士で調理も行っていたのもあって、食事作りは全く苦にならなかった。毎朝違うもので、料亭や旅館のような献立とまではさすがにいかなくても最低おかず二品をキープしている。
そうして自分で好みの朝食を作って満足していた時にふと思ったのは、「なぜ母はだんだんと食事に対して手を抜くようになったんだろう」ということだった。
最初に考えたのは自分の時間や遊びに費やした結果かと思った。けれど、よく思い出してみれば幼少期はそんなことはなかった。朝にししゃもや目玉焼きなんかが出てきた日もあるし、手の混んだ料理もちゃんと見た。
ならば加齢だろうか?母は大病を患い、数か月病院にお世話になっていたことがある。その頃からあまり食事に手を掛けなくなった気もする。そういえば、入院したのは専門学校卒業の前年だったような…とまで考えて少し理解できた。
私の仕事は不規則で、家庭で食事を取れる機会も随分と減っていた。朝食も昼食も夕食も、すべての食事を家で食べないことも珍しくなくなった。たぶん、食べる人数が減ったことがきっと一つの理由だ、と思う。
何度かは自分で食事を作ってその材料費だけを請求したりもした。母は喜んだ。私は自分で作ればそれなりに満足して食事ができるしそれでよかったが、父は怒った。理由はよく理解できないが、材料費をもらって食事を作ることが非常に気にくわなかったらしい。
父がキレ、母が呆れ、私が拗ね、しばらく作らずにいてそのうちまた我慢できず作り、そして最初に戻る。そんな流れを何回も繰り返して最終的に結婚という形で家を出てループが終了した。
母が料理をしなくなった理由の一旦は自分にもあったのかもしれない。「おいしい朝ごはんがどうしても食べたい」と言うのは、少しばかり身勝手だったなと結婚してみてやっと思うようになった。
私は小説家になりたかった
のか?
昔から夢想が過ぎる方だとは思ってはいたけれど、今になってふと振り返ると私は小説家になりたかったんだろうか?
なれるかもしれない、くらいに思った時期は多少はあるけれど、なりたいと思った時期はよく考えたら無いかもしれない。
私は努力ができるほうではないけれど、文章を書くのは苦にならなかった。これが才能かと言われたらきっとそうではなくて、惰性なんだと思う。
私は小説家になりたかったわけではない。小説家は夢ではなかった。
なりたいと思って努力したことはないし、なりたいと思ってなにか書こうとしたこともない。こんなことを考えている今も、小説家に自分がなることははっきりと無理だと思っている。難しい、ではなく無理だ。
無理な理由は明確で、努力ができない……もっとはっきりと言葉にするなら飽きずに書き続けることができない。
自分がぼんやりとやりたいと思っているんじゃないかと思っていたことが実はそうではないとわかって数日、夢をあきらめたのではなく納得した。納得して置いておくという選択肢を選ぶことができた。これは大きな一歩なんじゃないかと思う。
私は小説家になりたかったわけじゃない。
選択肢のうちの一つがちゃんと終わってよかった。
アンドリューNDR114
言わずと知れた名作。名作中の名作。
いわゆるアンドロイドが人間の心を持って悪に立ち向かう…なんていう話では決してない。この話は「人間とは何か」を問う物語だ。
アンドロイドと人間の違いは何か。
生物としての体があること。……では、人工臓器を使用した時点で人間はロボットになるのか?
戸籍があること。……戸籍を失った人間は人間ではなくなるのか?
子孫を残せること。……不妊症、あるいは性器を取った者は人間ではなくなるのか?
心があること。……そもそも心とは何なのか?
例えば体を構成する6割の臓器が人工物になった場合をロボットとする、という法律ができたと仮定して、そのことを認められるだろうか?
記憶喪失で戸籍を確認できないなら人間ではないのか。
子どもを残せない者はロボットと同様なのか。
心の正体は何なのか。
少々見方を変えると、ゴリラと人間の違いは何か、という話題にも似ている。
毛の生え方?顔の作り?どんなにゴリラに似た顔をしていても、あるいは人種が違っても人間とゴリラは見分けられる。ゴリラと人間の違いを言葉ではっきりと分けられることはおそらく今後も無い。
つまり、「人間」とはぼんやりと、あくまでぼんやりと人間同士が「人間だ」と認識しあっているだけであり、人間と認識された者の中に実はゴリラやチンパンジーが混ざっていたとしても何ら可笑しくないという状況が今の定義なのだと思う。
もちろん、科学的に解明することはできる。DNA検査だ。しかし、生まれた時点で人間かどうかという点でDNA検査している赤ん坊なんて見たことがない。つまり、高度に知能発達して人間に近づいたゴリラが人間として生活に馴染んでいたとしても何もおかしくないということだ。
随分脱線してしまったけれど、つまり「人間」というもののはっきりとした定義がない以上アンドロイドと人間のはっきりとした境目はないということだ。
アンドリューは自らの意思で、音楽を楽しみ、図面を使わずに創作し、自分を見つける旅に出かけ、そして「自分」を表現するためのあらゆる手段を講じる。
表情を持ち、心がある。見た目も人間そっくりだ。
では人間とアンドロイドの違いは?
アンドリューNDR114ではその「違い」を端的に示した。幼い頃に初めて見て、それから何度も何度も繰り返し見返しているけれどそのたびに新しい発見をする。
人間とはなにか。
アンドリューが人間としてはあまりにも長すぎる生涯で教えてくれる。
人生において、見返すたびにその時のライフステージに応じた衝撃を与える間違いない良作です。
こいつに決めたァ!
今週のお題「結婚を決めた理由」
今続きで書いている記事にもかかわるような内容で興味をそそられたから書いてみよう。
女側なので端的に言えば「プロポーズされたから」という所になる。とはいえ、プロポーズを受けたいと思う程に彼は人間的に出来ていて良い男だったからという面も十分にある。
それまでの人生で何人か既に付き合ってきた女性がいる彼の立ち振る舞いは元カレが女性慣れしていなかった私にとっては随分と楽をさせてもらっているし、彼自身の素質もまた上品で嫌味がなかった。それだけじゃない。彼は褒め上手で笑顔がとても素敵だ。トラブル時の対処も落ちついていて安心出来る。
そして何より。食事の好みが一致していた。
私は細かな所で嫌いな食べ物があるものの、それはたいてい除去することが難しくない物で嫌いな食べ物に関しては割合扱いが難しくないほうだと思う。
…はっきりと言ってしまうと香り物と総称される物が苦手。ゆずや大葉、セロリ、山菜の類も駄目。お子様味覚だ。
が、しかし。好きな物もはっきりしないところで最終的に感覚的になっている私の味覚に合致する人は意外と少ない。そんな私と一致した彼は稀な味覚の持ち主なのかもしれない。
家庭の不和は食卓から始まるのだ。私はそう信じている。
「…メシいらねぇ」と食卓を一瞥して外出する息子
「こんなメシ食えるか!」とちゃぶ台をひっくり返す親父
食事作りをしなくなった母親
ドラマや漫画で描かれる不和のシーンは食卓に結びついているように私は思う。裏を返せば食卓が平和であれば家庭は平和じゃないかと。…些か暴論だろうか?
この人と一緒であれば、食卓は平和だろうと思ったのだ。
私が嫌いな物をちゃんと覚えておいてくれる彼と、嫌いでも作ることだけなら平気な私ならなんとかなるだろうと。
料理好きな彼は私に新しい料理を教えてくれるだろうし、私もそれを楽しみにしている。美味しい食べ物を食べる時、人は仏頂面ではいられない。その時ばかりは身分も国境も関係なく、幸せにさせられてしまう。食べ物の持つ力強さには感服するだけだ。
そしてもう一つ。
ちょっとここでは書き難いことがあり、それを彼は理解しようと努めてくれた。その環境から改善するように、結婚したいと。そんな彼の優しさに甘えて結婚を決めた。
最終的には、私も彼を選んだのである。彼と結婚したいと願っていたのは私もまた同じだった。地元は遠い私たちだが、結びつけてくれた神様だか仏様だかには感謝している。この人と出会えて本当に良かった。赤い糸を千切ってしまわないように、ずっとこの気持ちを忘れたくないと思っている。
「砥ぐ」
学生時代から使っている中砥石を愛用している。キングの#1200だ。
栄養士の学校で入学時に強制購入だった物でかれこれ10年近い相棒だが砥石は予想の数百倍は使える。面直しという、砥石自体を平らに直してメンテナンスをしていれば私の使用する包丁一本しか砥がないでいるのならそれこそ私が山姥になるまで使えるだろう。
「砥ぐ」ということは日本の文化だと最近聞いた。
では他の国ではどうしているのだろう?つまり、切れ味の悪い状態になった時は新しいものを買うのだろうか?ふと思ってみて調べてみたらこれまた異なる状況にあった。
「スティックシャープナー」というものを使うんだそうだ。
鈍角になった面を削り落して鋭角に直す、という説明でいつかこのブログを見返した時に私は理解できるのだろうか…?
やすりのように加工された鉄またはセラミックの棒でそれに包丁を擦りつけて削るんだそうだ。
また、それでも事足りない時は専門の回転砥石を使うらしい。現在はグラインダーで研磨することの方が多いのだとか。
ふむふむ、と新しい知識の入ってくる感触に頷く。こちらがいいとかあちらさんがいいとかではなく、砥ぐという行為が案外特殊だったということに素直に感心した。ホームセンターでは砥石の隣に包丁研ぎ機なるものも売られている。初めて使った時は「なんて簡単なんだ!」と感動すらしたもののその構造を知ってからは全く使っていない。なんというか、私は包丁を甘やかしたいのだと思う。
事前に30分以上掛けて石に水を含ませてからタオルの上に設置し、背筋を正して包丁を砥石に乗せる。10円玉一枚分の厚みを浮かせて、手首から肩へ掛けての力を抜き、指先に集中する。シュッシュッと小気味よく滑らせていると砥糞で指先が徐々に染まり、それがある種の安心感を私にもたらす。
”よし、ちゃんと砥げている”
さらに水を含ませて塗り広げるようにして続け、角度を合わせてから切っ先から左右の角度を確認する。うん、曲がっていない。…いや、ちょっとこの辺りが甘いかな?
何度か直してから野菜くずで確かめ、よく洗い直す。あぁ面倒だ!そう思われる人も多いかもしれないけれど、前述の通り包丁を甘やかしたい私にとってはむしろ楽しい。
・・・言い過ぎた。毎日やれと言われればちょっと困る。
しかし、日本という国でこうした特殊な文化があるというのにやらずにいるのは勿体ない。まだまだ「砥ぐ」ということに関しては初心者も初心者な私だけれども、いずれ自分の包丁だけは完璧に「甘やかせるように」なりたいと思っている。